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【映像時間】
64分[525円]
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【内容の一部紹介】
天武天皇とその妻持統天皇は史上最強の天皇です。中央集権国家の完成はこの二人の業績だと思っていい。極端な皇親(独裁)政治で律令制度の導入を図りましたが天武は飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の完成目前で倒れ帰らぬ人となります。この令によって蘇我の悲願だった律令制が完成すると、藤原氏とその氏神である春日系の神が困ることになります。
日本書紀によれば、天武の死後、大津皇子が処刑されましたが、これは鸕野皇女(うののひめみこ、持統天皇)によるものです。これによって草壁皇子が皇位継承権を持ちますが、彼は自動的に皇位を継承できるはずが、3年の空位を経て死亡します。これは実の母である鸕野皇女(持統天皇)から殺されている。彼女は凄まじい女性で歴史上まれに見る悪女で、その後、自分が天皇になっています。
持統天皇は天武天皇の妻であると同時に天智天皇の娘。政治の天才で、政治と権力のためならなんでもできる。昔、女性にとって夫は政略結婚の相手であり、社会的地位のためだけの存在でした。女性にとって、夫よりも、血の繋がっている親や兄弟の方が大切で、持統天皇は父である天智天皇と繋がっています。だから藤原不比等と仲が良く、二人三脚でこの当時の政治を行いました。そして持統天皇の庇護の元、不比等が日本書紀編纂に関わりました。その結果、藤原氏繁栄の礎を作った中大兄王(天智天皇)と中臣鎌足(不比等の父)が英雄になっています。
関氏の「持統天皇の本当の目論見は、「夫天武朝を継承するかのように見せかけて、実質的に天智朝を復活させよう」というもの」という主張はものすごい洞察でこの通りだと思います。後の歴史家が全員だまされています。後の歴史で天武系の天皇は排除されていきます。そして平安京を作った桓武天皇が出てきて、そのあとずっと天智系の天皇となります。持統天皇がそれをやろうとしていたことを歴史が証明しています。それは蘇我氏を歴史から排除しているということです。
さて、有名な持統天皇の和歌「春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香具山」。関氏の別の本に、天の羽衣伝説という形でこの和歌の意味が書いてあります。ぞっとします。
【概要&目次】
天智天皇が没した後、天智天皇の子・大友皇子と中臣(藤原)鎌足と皇弟・大海人皇子との間で、皇位を争う壬申の乱が起こった。大海人皇子が勝利するのだが、強力な朝廷の軍になぜ勝つことが出来たのかが謎。大海人皇子は即位して天武天皇となりその妻持統天皇と共に最強の天皇と言われる。天武亡き後、持統天皇は藤原不比等とともに活動して藤原氏のための律令制を確立、藤原千年の栄華の基礎を作った。不比等は日本書紀に関わり事実を隠蔽した。誰が得をしたかという視点で見ると本当の歴史が分かってくる。
1.壬申の乱の謎(00:20)
壬申の乱の発端となった天智天皇殺害の犯人と動機、実行犯について。
大海人皇子(天武天皇)が朝廷の正規軍に勝てたのは蘇我氏の強大な軍事力による。
・扶桑略記の記述(00:26)
・天智天皇殺害の実行犯は大伴御行(03:39)
・大海人皇子を恐れる朝廷軍(08:33)
2.日本書紀は誰が書いたのか(11:17)
通説では日本書紀は天武天皇が正統性を主張するために編纂されたとされているが、日本書紀には蘇我氏が悪く書かれており、蘇我が天武の後ろ盾となっていることと矛盾する。日本書紀が完成したころの権力者藤原不比等の意向が反映されている。
3.天武は天智の弟ではなかった(16:09)
天武の方が年上で、天武と天智は父親が違うという説。
4.持統天皇の目論み(28:05)
持統天皇は夫天武亡き後、天武朝が継承するように見せかけて、実質的に天智朝を復活させようとする。
5.天皇の御製歌(37:10)
「春過ぎて夏来らし 白栲の衣乾したり 天の香具山」持統天皇
この歌の正しい解釈は、蘇我氏から力の源泉である律令制を奪うことを天の羽衣に掛けて詠んだもの。
6.藤原不比等による権力の掌握(43:52)
蘇我氏の律令制は天皇を中心とした中央集権であるのに対し、藤原氏の律令制は、天皇はかざりで藤原一族に私物化された制度。藤原腹の天皇を作り出すことで権力を掌握する。
7.長屋王の変(47:53)
藤原に反旗を翻した長屋王が滅ぼされるが、藤原4兄弟は長屋王の祟りで没する。
8.聖武天皇と光明子(53:50)
藤原腹の天皇聖武は光明子の導きで母宮子と会い、真相を知り反藤原に豹変する。
9.法隆寺の謎(57:13)
藤原氏は殺害した蘇我系の人々の怨霊を封じ込めるために法隆寺にまとめて祀った。
10.なぜ聖武天皇は東大寺を建立したか(58:10)
聖武天皇と光明子は祟りを恐れ、キリスト教に救いを求めた。聖武は奈良の大仏「毘盧遮那仏 (びるしゃなぶつ)」をキリスト教の「唯一絶対なる神」として建立した。
奈良平城宮では東大寺が建立され八幡神が勝利。春日神側の藤原氏は奈良に住めなくなり、桓武天皇の時に平安京に遷都する。
参考文献)「隠された十字架」梅原猛著、新潮文庫
参考文献)「逆説の日本史〈二〉古代篇(下)」伊沢元彦著、小学館
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